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これは、定村歯科医院・院長が、今までどのような人生を歩んできたのか、ということをまとめてみたものです。普段、医院内でお会いしている姿とはギャップがあるかもしれませんが、まあ笑わずに読んでみてくださいね。
私は1973年9月27日に、父哲、母敬子の長男として雪国・新潟県で生まれました。新潟は、母の実家で、里帰り出産だったというわけですね。
予定日から大幅に遅れた為か、4000gというビッグサイズで生まれたそうです。
そして私が生まれた約1ヵ月後に、父は荻窪で独立開業したのです。定村歯科医院の誕生ですね!
キリスト教系の幼稚園に通っていたので、キリスト教に因んだ行事が多く、聖歌隊をやったり、クリスマスパーティーをやったりしたことが思い出です。運動会や、遠足など楽しいイベントも多くあり、いつも笑顔で過ごしていた幼稚園時代でした。
家では当時、姉の影響が強かったせいか塗り絵や、おままごとのような女の子遊びをよくしていたように記憶しています。当時は両親とも特に厳しいこともなかったので、まあのんびりとした幼稚園時代だったと記憶しております。そのせいか、体型もぽっちゃり型で、幼稚園時代の写真を見るとムチムチしています!!
小学校は、同じ小学校の3学年上に、姉が通っていたので、低学年の間は姉に手を引かれてのバス通学でした。通学路に、アリやカタツムリなどの虫がいると、いちいち捕まえてはしゃがみこんで観察していたようで、姉に引っ張られるようにしてバス停まで歩いていました。一度、蜂を追いかけていて、ひざの裏側を蜂に刺され、ひざが曲げられないくらいに腫れてしまい、大泣きしたことがありました。今でもあとが残っています。
当時なりたかった職業は、ペットショップの店員さんでした。ちょうど家でポメラニアンを飼い始めた時期だったからという単純な理由でした。
そんな当時の楽しみは、ミニカーを部屋いっぱいに並べることだったと思います。ほかにも細かい物(タバコの箱やコイン)などを並べて遊ぶのが好きだったようです。別に暗い性格だったわけではないのですが、当時から細かい作業が結構好きだったのでしょうか?!ほかには、厚紙を切り抜いて、それを立体的に組み立てて船を作ったり、割り箸でゴム鉄砲を作ったりするのも楽しい遊びでした。
ある日父が、「これで遊べば器用になる」などと言い、買ってきたハンドナイフを渡されたのですが、そのナイフや、コンパスの針を使って学習机に穴を開け(3センチくらいの厚みがあったのですが・・・)、パチンコ球を穴に入れる自称「ゴルフゲーム」を開発し、親にずいぶん怒られたのが忘れられません。当時から削ることや、穴を開けるのは嫌いではなかったということですね・・・。
父は、よくお土産に本を買ってきてくれました。スポーツ物や歴史物、伝記、理科系の子供向けの本が多く、野球関係のものや戦国武将関係の本は特に好きでした。今思うと父は家にいるときは囲碁のビデオを観ているか、何か本を読んでいたような気がします。その無言の姿勢に影響されたのか、今では私も読書は大好きです。
勉強面は、公文式を早くからやっていたおかげであまり苦労しませんでしたが、運動はあまり得意ではありませんでした。ただ、野球は好きで、母親にグローブとボールを買ってもらって家の前で何時間でも壁当てをやっていたようです。テレビでもプロ野球や、春・夏の甲子園の試合を夢中で見ていました。
習い事も色々やりました。バイオリン(先生が嫌いで親に直訴し辞めさせてもらった)、ピアノ(張り手が出てくる恐ろしい先生でこれまた親に直訴して辞めさせてもらった)、囲碁(行く度にお菓子を貰えたので喜んで通ったが腕はあまり上達しなかった)、水泳(学校行事で遠泳があるため習っていましたがあまり好きではなかった)などをやっていましたが、将来に役立ったかどうかは定かでありません。学習塾にも3年生ごろから通っていたのですが、本当はもっと遊びたいなあ、と思いながら、嫌々通っていたように覚えています。
楽しい思い出一杯で小学校を卒業すると、エスカレーター式に系列の中学へ進学しました。
中学時代の思い出は、臨海学校、林間学校などのイベントです。中学1年の臨海学校では、伊東の海で2時間遠泳を完泳しました。水泳が苦手だった自分にとってこの経験は自分に自信をつける大きな経験になりました。
順調に過ごしてきた中学校生活ですが、3年生の秋に大事件が起きます。
9月のある祝日に家族で、外食したあとの出来事でした。帰宅中に、気分が悪くなり、汚い話ですが、食べたものを全て出してしまったのです。ただの食中りだろうと思ったのですが、激しい腹痛とそれまで味わったことのない腹部の苦しい感じに異常を覚え、救急車でJ病院へ搬送されました。そこでの診断は急性胃炎による腹痛ということで、痛み止めと、水分補給程度の点滴をしただけで、家に帰るように指示されました。
帰宅しても一向に痛みは消えず、一睡も出来ない苦しい夜を過ごしたのですが、やはりただ事ではないということで、早朝に再度、救急車を要請し、受け入れてくれる病院を探しましたが、緊急手術に対応できる病院となるとなかなか見つからず、苦しいままじっと耐えていました。
ようやく見つかった受け入れ先は阿佐ヶ谷にある河北総合病院でした。
搬送されるや否や検査が始まったのですが、その時点で、もう血圧が危険なほど低下しており、幻覚を見るくらい意識レベルも低下しており、呼吸もままならない状態で、苦しみのあまり殺してほしいと真剣に思いました。
検査の最中に血を吐き、もう検査も出来ないということで、緊急開腹手術になりました。
開腹して、小腸軸捻転ということが初めて分かったのですが、既に腸の大部分は壊死してしまっていて、大部分を切除するという手術になりました。手術中に父は手術室まで呼ばれ、執刀医に命の保障はありませんと言われたとの事で、まあ死に掛けていたということですね。
長時間の手術のあとも、肺炎を合併症で起こし、片方の肺が機能しない状態になってしまったりして、なかなか集中治療室から出られませんでしたが、何とか一命をとりとめ、1ヶ月近くに及ぶ入院を経て退院しました。
入院中は、父が仕事帰りに寄ってくれて、一緒に将棋を指したり、テレビを見たりしてくれたのが救いでした。入院中のある夜には、自分が生きていることの意味を考え、多くの人に支えられているのだなあ・・・などと子供ながらに実感し、涙したこともありました。
後で聞いた話ですが執刀してくれた先生(団野誠先生)は、本当は非番の日で、緊急事態に呼び出されて手術してくださったそうです。そんなこともあって、私も、出来るだけ困っている患者様には自分を犠牲にしても助けたいという気持ちが自然に出るのだと思います。
手術の影響による体調の不調は、その後3年間近く感じられました。しかし、無事に高校に進学して自由を手にする?と、大好きだった野球をやりたくなり、当時、好きだった漫画「タッチ」の影響などもあり、高校野球の世界に入ることになったのです。
もともと運動神経が鈍いので、決して上手くはないし、体も弱かったのでなかなかレギュラーにもなれず、万年ベンチって感じでしたがそれでも自分なりに充実した3年間でした。今でもたまに当時の友達に会いますが、そのような友人を持つことが出来ただけでも大きな価値があると思います。
3年の夏の甲子園の地方大会予選で敗退し、引退するまで部活を続けたということに意味があると思うのです。
高校時代は、ほとんど勉強に興味がなく、本も読まず、遊びと野球に明け暮れる毎日だったように思います。当然成績は急降下し、授業もちんぷんかんぷん!テストを返される度に、泣きたくなるという惨状でした。
進路の決定は、父の仕事になんとなく憧れがあったので素直に歯学部希望で決まっていました。父からは、「体が弱いのだから、転勤や通勤、人間関係で体力を消耗するサラリーマンには向いていないぞ」などとは言われていましたが、直接歯科医師になるように言われたことは一度もありませんでした。しかし、スマートに働いている父を見て歯科医師という職業になんとなくよいイメージがあったことは確かです。
という事であわてて高3の秋から勉強を開始したのですが、案の定、大学受験では辛い目にあってしまいました。
そして一年間の楽しい?浪人生活を経て日本大学歯学部に入学したわけであります。
大学入学が決まると早速、車の免許の習得とアルバイトに励む日々が始まりました。
アルバイトは、家から近いことと、姉も一時期やっていたということでデニーズを選びました。仕事は、キッチンでの調理などだったのですが、しっかり頭の中で組み立てて仕事をしないと大変なことになってしまうという厳しい状況下でかなり鍛えられました。スケジュールの都合が合わずに、数ヶ月でやめたのですが、すぐにまた近所のロイヤルホストでアルバイトを始めました。今度は接客担当です。4年間続けたのですが、ここで色々なマナーなどを勉強したことは今でも役に立っていると思います。
アルバイトの一方で、懲りずに野球もやり続け、大会などに参加しておりました。1年、2年のころは授業も即席の一夜漬けで乗り切れることが多く、さほど苦労せずに遊びとアルバイトに精を出すことが出来ました。
そしてなぜだか、最も遊んでいた1年のときの成績が一番良いのです。何とびっくりの学年で2番(130名近くいる中で!)の成績を取ってしまい、奨学金10万円をゲットしました。しかし、あとで1番の奨学金が200万円以上だと聞いてかなり悔しい思いをしたものです。1番と2番の差は2番と100番の差よりも大きいとは言いますが、身をもって経験したわけであります。
3年からは実習形式の授業が多くなり、面白い実習とつまらない実習がはっきりしており、この時点で、自分の向き・不向きについて色々と考えることが出来ました。
5年になると、いよいよ歯医者さんらしい雰囲気になってくるのですが、今思えば時間もたっぷりあり、色々な本を読んだり、見学をしたり、という経験をするべきだったなあと思うくらい、当時はのほほんと暮らしておりました。まったく何の危機感もなく、社会ボケした状態で、ぬるま湯にどっぷりつかって、うたた寝をしていたような時代です。
家庭のほうでは、このころから父の具合が悪いことが発覚し、色々と揉め事があったようなのですが、長男である私は相変わらずのんびりとマイペースで、やりたいことだけやっているような、わがまま勝手な生活でした。もっと両親と将来のことを話し合い、仕事についてしっかり考えを持つような機会を作るべきだったと思います。
6年の秋になり、院内実習が全て終了するとあとは卒業試験だけの生活だったので、自由な時間がずいぶんと作れました。その時間を使い、歯科医院でアルバイトを始めたのですが、この経験はかなり役に立ちました。
中目黒のN歯科で、歯科助手の経験をさせてもらい、大学の講義や実習では味わえない臨床現場での治療の勢いを目の当たりにし、かなり刺激を受けました。そのころは、父の具合もあまり良いとはいえない状態で、卒業してからそんなに時間を空けずに父のところで仕事をするかもしれないと漠然と思っていたので、早く臨床での力をつけたいという気持ちが強かったのです。
そして無事に卒業し、国家試験にも合格し、浦安にあるS歯科医院にて勤務医生活が始まったのであります。
S歯科医院の理事長は、仕事に厳しい方で、返事の仕方から歩き方、見学の態度などをよく注意されました。早足で歩かなければいけない、見学時には後ろで手を組んで見てはいけない等と細かい指導も多く、辛い時期ではありましたがまあこれも修行と思い、休まずに出来る限り技術と知識を多く吸収するように努力した時期です。
通勤が中野からの始発で座れたので、その時間に色々な本を読み、知識を増やしたのがその後、役に立ちました。
順調に経過していけば矯正やインプラントまで習得するつもりだったのですが、就職して1年も経たないうちに父が仕事を出来ない状態になってしまったのです。
そんな時、銀座で開業している父の同級生のH先生に呼び出され、「実家の医院を手伝え。やれば出来る!」と激励されたこともあって、2月から定村歯科医院で仕事をするようになりました。同時進行で、勤務医も続けていたのですが、体力と時間の限界を感じ、勝手ながら勤務先の医院を退職することにさせていただきました。
しかし、当時の自分の知識では治療に際して自信が持てなかったので、新高円寺で開業されているS先生を頼り、週に1回勉強を兼ねて仕事をさせてもらいながら自分の医院も運営していくという環境を選びました。S先生には、患者様への対応の基本姿勢や治療の基礎的なことから特殊な症例まで何でも相談に乗っていただき、本当に親切丁寧に指導してくださいました。S先生には、今現在でもお世話になっており、本当に師匠のような存在です。
引き継いだ頃の定村歯科医院は、父が患者様をかなりお断り、または紹介したあとだったので、比較的のんびりとした時間の中で治療に向かうことが出来ました。入院している父に患者様の治療予定などを確認しながら診療を進めていくという状態でしたが、緊張感と集中力を最高の状態に高めて治療に取り組んでいたので、少ない人数であっても一日の診療が終わるとぐったりの毎日でした。
診療後は、秦野中井のホスピスに入院していた父のもとへいくことも多く、体力的にも精神的にもかなりハードな日々でした。
少しずつ患者様も増えてきて、自分の仕事のペースも掴んできた6月に、ついに父は帰らぬ人となり、正式に医院を継承することになりました。悲しいやら、忙しいやらでわけも分からず、がむしゃらに仕事に取り組む毎日が始まったのですが、本当に親切な患者様とスタッフや家族に恵まれたおかげでなんとか毎日の仕事をクリアしていたように思います。
そのまま走り続けて現在に至っているというのが実感です。途中で立ち止まったり、振り返ったりすることもなく前ばかり見て、走ってきたというところですが6年経って、ようやく歯科医院も活気を取り戻し、仕事も充実したものになってきております。
ただ、この6年間でもっと腰を据えて習得しないといけなかった技術もあると思うので、今後はさらに診療技術のレベルを上げ、より多くの診療オプションを提供できるように勉強面にもっと力を入れていこうと考えております。
そして、患者様の意識が少しずつ予防歯科のほうに移行してきていると感じているので、この点でもスタッフに協力してもらいながらより良いサービスを提供できるように設備を整え、もっと快適で、もっと楽しい歯科医院を作り上げていこうと考え中です。


JR・丸の内線 荻窪駅南口
徒歩約5分です。⇒詳細